やどかりの足跡

こちらのブログでは、「自力で稼ぐ」をテーマとして、お金、マインド、スキルに関しての記事を書いていきます。

世界の奇才・天才「数学の魔術師ラマヌジャン」

こんにちはやどかりです

先日ネットサーフィンをしていたら面白い一人の天才を見つけたので紹介します。

 

f:id:blogmaiking1981:20180308231636p:plain

「数学の魔術師」と言われたラマヌジャン

19世紀末ラマヌジャン南インドの貧困な家庭で生まれた天才数学者だ。

 

 

 

ラマヌジャンの生い立ち

f:id:blogmaiking1981:20180310093802j:plain

 階級は最高のバラモンであったが、家庭は極貧だったという。

 

運命の出会いがあったのは15歳の時。

 

とある「純粋数学要覧」という本を手にした。

その本は定理や公式が6000と記載されているだけの一見つまらないものであった。

 

だが、ラマヌジャンは他の人たちとは違っていた。

毎日毎日その公式や定理を自力で証明して解くことに夢中になった。

やがて自分自身で公式を作るようになった。

 

そのときは紙は貴重なモノだったので、石版に公式を書いては考えていたそうだ。

石版の文字を消すときは通常は布で消すのだが

時間がないからと言って肘で消していて、

ラマヌジャンの肘はいつも真っ白だったそうだ。

周りから見たら変人に見えたであろう。

 

数学ばかりやっているせいで優秀だった成績はどんどん落ちた。

やがて授業にも出席も出なくなり2度も落第をうけてしまう。

 
やがて22歳と年頃になってもそんなことばかりしている彼を心配した母親は

彼を結婚させた。なんとそのお嫁さんの年齢は9歳!

今の日本だったら完全に犯罪である。

 

そんなラマヌジャンだったが、港湾事務所の事務経理として働いた。

しかし彼は仕事中でも数学のことばかり考えていたようである。

上司も好きなだけやれというずいぶん寛容な対応をしていたようだ。

 

運命の出会い

f:id:blogmaiking1981:20180310094017j:plain

やがて周りの人たちも彼がどれほどの数学の才能があるのか知りたくなり

イギリスの著名な数学者に手紙を送ることを勧めた。

そしてイギリスのヒル教授、ベイカー教授、ボブソン教授に手紙を送ったが

 

結果は無視。

 

名もしらないインドの若造からいきなり手紙が来たら当然の対応である。

 

再び、ラマヌジャンはある一人の数学者に手紙を書いた。

その手紙には自己紹介と100個ほどの公式を書いていた。

 

これが運命の人となる。

彼の名前はハーベイ。

ハーベイは当時イギリスの数学者で最高権威の人物だった。

 

ハーベイはラマヌジャンの手紙を見るなり驚愕したという。

簡単な公式もあったが、ハーベイがまだ未発表である公式も中には存在していたからである。

しかしラマヌジャンの手紙には証明が一切なく公式だけが並んだものだったのだ。

 

ハーベイはラマヌジャンに手紙を返した。

「これらの公式の証明を送れ」と。

数学界の常識では公式は証明があるのが当然だったのだ。

 

自己流で勉強したラマヌジャンは数学界の常識がなかった

ラマヌジャンは公式を証明する概念が無かったのだ。

天才ほど直感で答えを導いてしまうので、その過程がわからないのだ。

(後に定理をどうやって導きだしたのかという問いに対して「夢の中でナマギーリ女神に教えてもらった」というのが彼の答えだったそうだ。)

 

意味がわからなかったラマヌジャンはさらに公式を数百送りつけた。

呆れて、ハーベイは証明を送ってもらうことを諦めた。

だが只者ではないと予感していたのだろう。

ラマヌジャンケンブリッジ大学に招待した。

 

しかし意外なことにラマヌジャンは彼の誘いを断ってしまう。

当時の宗教観で海を渡ることは汚れるという習わしがあったからだ。

上司のイーヤーはラマヌジャンを誘い、

奥地にある寺院に行き三日三晩お祈りをした

するとラマヌジャンは神様から「行っていいよ」というお告げを受けたそうだ。 

 

ラマヌジャンイギリスへ旅発つ

f:id:blogmaiking1981:20180310092827j:plain

ラマヌジャンは渡英した。

ハーベイはラマヌジャンに証明をさせようとしたけど、

ラマヌジャンは証明の概念を理解することができなかったため、

諦めてラマヌジャンは公式を考えて、ハーベイが論文を書くという手法に切り替えた。

 

ラマヌジャンは毎朝6個の公式をハーベイのもとに持ってくる。

これは驚異的な数字だ。

現在の一流の数学者でも一年に1つか2つ新たな公式を見つけるのがやっとだからだ。

秀才と天才が手を組んだ最高のチームは、数学界で躍進を遂げた。

  

ラマヌジャンの悲劇

f:id:blogmaiking1981:20180310093550j:plain

イギリスは第一世界大戦という暗い時期に差し掛かり

妻をおいてきたラマヌジャンはやがて鬱になり、

一度自殺未遂を計ってしまう。

電車に飛び込んだのだがしかしそのときはなんとか間一髪目の前数センチのところで電車は止まって難を逃れたようだ。

 

ハーベイは彼を励ますために

数学の権威ある賞であるフェローへ推薦し、見事受賞した。

 

気をなんとか取り直したラマヌジャンはまたいくつかの論文に取りかかった。

しかし鬱は治らずラマヌジャンはインドへ帰った。

しかし妻と母親の仲は悪かったらしく、

ラマヌジャンの病気は更に悪化

惜しくも32歳でこの世を去ってしまう。

 

ラマヌジャンの業績

f:id:blogmaiking1981:20180310094159j:plain

ラマヌジャンは生涯にわたって3000以上もの公式を作り出した。

ただ、ラマヌジャンの公式には証明がなく、

100年以上たった現在でもすべてを証明しきれていないという。

現在宇宙工学などに応用されはじめている。

 

ラマヌジャンの公式は前置きもなく突発的に出てくるため、

彼がいなければ何百年後といえ発見されなかったであろう公式がたくさんあると言われている。

 

ラマヌジャンと一緒に研究をしたハーディは

「私が生涯にしてきた数学の仕事など大した貢献ではない。しかしラマヌジャンを見出したことは最大の発見だった。」

と言っている。

 

 ↓↓↓よろしければ読者登録お願いします

↓↓↓いいね!ブックマークなどしていただけると泣いて喜びます!!